第01話   庄内の継竿の歴史   平成24年10月20日  

 五〜七mと云う長さの竿を公共交通機関の車内に持ち込んだり、自転車で担いだりして持ち運ぶことは相当に不便をきたしていた事から、必然的に継竿が考え出されたのは当然の帰結であった。

 ところが庄内竿は、古来より選びに選ばれた一本の竹から作られた延竿である事が最大の特徴である。飽く迄も、一本の竹の性質を生かしその味を殺さず、しかも庄内竿独特の強靭さを兼ね備えたものでなくてはならないと云う昔からの伝統があった。庄内には延べ竿を二つ、三つに切ると云う習慣はなく、それを便利なものにする為とは云え敢えて切ると云う行為には必然的に相当な抵抗があった。庄内の延べ竿の歴史は、庶民の釣の歴史ではなく武士の釣りの歴史と云う伝統があった為か、他の地方では、全く考えられないほどの抵抗があったのは当然である。その抵抗はその後約三〜四十年ほどと云う長い期間、延竿派と継竿派の論争と云う形で残った。そんな抵抗も少なくなってきたのは昭和三十年代後半のグラス竿の普及の頃と云える。

 大正八年(一九一九)鶴岡〜三瀬間に近代的な交通機関としての汽車が開通した。その後大正十二年(一九二三)鶴岡〜鼠ヶ関間と次々と鶴岡以南の釣り場に延線されて行った。そこで大八木釣具店の店主(大八木得吉)が、工夫を凝らし大八木式真鍮パイプ継なるものを考案した。

 当時の新たな交通手段の出現は近くの釣り場より遠くの釣り場と云う訳で釣り人に大いに歓迎された。新たに開発された大八木式の継竿は、携帯に便利と云うが歓迎され、交通手段を活用して鶴岡以南に行く釣り人達のかんにを中心に一気に普及することになる。と云うのは、長い竿は、汽車で運ぶのに規制があり、駅員との間に始終トラブルがあった裏事情にもよると考えられる。その為残念ながら、多くの名竿が、継竿になり延べ竿では残っているものは少ない。

 そんな便利な大八木式真鍮パイプ継であっても、欠点としてどうしても継ぎ目の部分が弱くなると云う欠点があった。その後その欠点を補うべく形として昭和十年頃真鍮パイプと竿に螺旋の傷を上下につけ、回して継ぐと云う現在の螺旋式真鍮パイプ継なるものが考え出された。以来その形式が現在まで受け継がれている。螺旋式真鍮パイプ継を考え出したのは、鶴岡市本町の菅原釣具店とも昭和初期の名竿師山内善作とも云われている。